2005.03.22
OJUNさんとリトグラフ

3月25日より「OJUN 全リトグラフ」を開催いたします。
OJUNさんよりメッセージを頂いておりますので、ここにご紹介させて頂きます。
新作も初公開されますので是非お越し下さい。



撃墜王 1996
謡画集・リトグラフ5点セット
僕がドイツから帰国して間もなくの頃だった。直後に阪神淡路大震災が起き、続いて東京の地下鉄でサリンテロがあり、世相は騒然としていたそんな時だった。誰かのオープニングの会場で、知人のギャラリストからリトの刷り師の方を紹介された。それが板津悟さんである。その時は、お互い挨拶を交わしただけだった。それからしばらく経って、板津さんから連絡があり、僕たちはあらためて会った。“ちょっと遊んでみませんか?”板津さんは、僕にリトを作るよう勧めた。そうやって制作されたのがリトグラフによる最初の作品「撃墜王」である。以来、10年近く、僕は板津さんの刷りで大小様々なリトを作ってきたのだが、モティフが墜落していく飛行機や子供が産み捨てられたアパートだとかおよそ不幸な夢の仔ばかりで我ながらアキレテしまう。そう云えば、昨夏、あの猛暑にあてられたわけでもないのだろうが、板津さんと制作したリトグラフは、お天道様がウインクをすると山も海も焼きつくされてしまうと云う絵だった。でも、刷り上がった僕の作品から人が、なにか殺伐とした光景や凶々しい空気を嗅ぎとることは少ないように思う。今まで、余りそう云った印象なり感想を聞いたことがないからだ。でも、僕は人にそう云うことを気取られないような操作はしていない。リト用のアルミ板の上に、“墜ちてる、<、死んでる、<、燃えてる、<、”と念仏でも唱えるようにクレヨンを重ねているくらいだから。たぶん、それが平面であり、版画だから、だと思う。版画は、イメージを二度殺す。あれこれ思案の程は、紙であれ、アルミ板の上であれ置かれたとたん、ノサレテしまう。此の身は、熱を奪われ、質量を滅し、方位を見失う。尻こ玉を抜かれてぺしゃんこにされるのだ。平であることの苛酷と恐怖は、これに尽きる。僕らの日々は、平らな上にはあり得ない。では、画家が、日々、絵を描くとはどう云うことか?あり得ぬ日々を、信じて疑わない、と云うことだ。これがワカラナイ画家は、「生きる」ことによほど倦んでいるか、スレている。さて、これが最初の殺し。二度目は、製版と印刷の時。僕が盛り々と塗り重ねたクレヨンは、始めにのせた一層の痕だけをシミのように残して後は揮発精油できれいに流される。水引きとインク盛りを交互に繰り返してローラーにかければ、最早、出自を失った似姿が一枚二枚と複製されてゆく。これで二度殺し。事程左様な自由狼藉の果てに刷り上がった作品を眺めながら、“ああ、コレもありか…”と妙にフに落ちてしまうのは、ココロを殺し、身をひるがえして到る回天の業に僕が、まんまとシテヤラレタからである。


いま、新作に取りかかっている。昨年10月も半ば、夜半、自宅近くで見たU・F・Oの絵だ。僕はそれを、15分くらいの間に2回見た。その報告をしようと思っている。しかしまあ、想うところはいろいろあるのだけれど、板津さんの命によって二度殺しにかかれば、僕の見たモノが何であったのかいよいよワカラナクなるかも知れない。でも、僕の労働の対価に見合うものが「破産」と云うことならば、これは実に清々しいことではないか。僕は、そんなにチャチな夢を見なかった、と云うことなのだから。朗報を待たれよ。








二〇〇五年一月二十一日 記
O JUN