2006.1.6

帰る日になって、初めてできた自由時間。ホテル近くのアーケードへショッピング。
しゃれたお菓子屋さんでスイーツを買い、サリー屋を覗く。
ムンバイは都会だから、ファッションもきらびやか。
日本じゃ着れないでしょ、と思いつつ熱心に見てしまう。
着物のしぼりのような生地のブラウスがあり、気に入って買ったら、
N先生が『そんなの私もほしいわ』と探すけどもうなくて、先生は本気でくやしがる。
大人げないところが可笑しく可愛らしい。
店を出ようとしたら、試着の時預けたスイーツの箱がない。
探したら、あらまっ、像の顔を持つガネーシャさんの神棚にお供えしてあった。
しかも、もう食べてるし。
店のマダムがあやまって、お菓子屋に店の子と戻り、同じものを買ってもらう。
みんなで爆笑。いい話のネタありがとう。

午後は観光。
ジャイナ教寺院に、ガンジーの住居跡マニ・バヴァン、 ヴィクトリア&アルバート博物館にインド門。
現地ガイドさんとしては是が非でも連れて行きたい絨毯屋。
O氏にお願いしていたスーパーマーケットにようやく立ち寄れば、たった10分しか時間がないって、えーっ。
走りながら食材をカゴに放り込みレジにむかう。ふーっ。
最後まで買い物していたN先生がようやくバスに戻った。
こういうところがN先生の可愛らしさ。

入りきらない荷物のうち、衣料品や日用品などはO氏の知人ボランティアの方からスラムの人に渡してもらうことに。
このシステムはみんながうれしい。手軽に、確実にできる寄付が、もっと広まればいいと思う。

行く前は長いなあ、と思っていた旅が終わる。
『インドにくると、人は業がでるか、しがらみがはずれるかなんですよ』とO氏が言っていた。
日常生活のなかで身につけていたしがらみを、あっさりはずしていた私。
インドは、童話「北風と太陽」の太陽だったのだろうか。
佐保田先生を慕い、みんなによい旅をしてほしいと思うN先生の気持ち、
この旅ができたことを家族や仕事仲間、N先生に感謝するみんなの気持ち、
びっくりするほどストレートな気持ちが集まり、暖かい光に包まれたような旅だった。
シヴァナンダ・アシュラムの総事務長が私たちに話してくれた『グレイスデバイン』。
私たちはみな祝福されている、大切なことは行動することだ。
ほんとうにその言葉の意味がわかるのは、これからもどっていく暮らしのなか、だ。

 

 

2006.1.5

石窟寺院を3日かけて巡り、最後に訪れたのは「地球の歩き方」にも
載っていない ピータルコーラ。
虎がでてきそうな谷、私たち以外誰もいない。
2200年前に彫られたが、銅や鉄が岩盤に入っていたので、脆いとやめたそうだ。
ここの壁画のお釈迦様は輪郭がやわらかく、やさしい印象を与える。
タッチが漫画っぽく、山岸涼子みたい。そぉーっと壁画にふれてみる。
神聖で土着的、慈悲の愛というものを感じる。
2千年以上も前に描かれた絵に向き合い、なぜか励まされたような気がした。

デカン高原は気持ちのよい場所。
O氏は『デカン高原にくるとあまりに広いので心が広くなった気がする』と言う。
デカンをわたる風にふかれると、遠い昔を思い出す。

夕方ムンバイへ移動するために空港へ。飛行機が出発したのは、なんと定刻の4時間遅れ、
呆れるほどのインド時間。こういうことはしょっちゅうだそうで、文句を言う人もいない。
ムンバイのホテルに到着したのは深夜12時、
チェックインを待つロビーで、ゆきかうインド美人に目が釘付け。
きらびやかなサリー、藤原紀香や山田優のような面立ちの華やかおねえちゃんがいっぱい、うれしい、きゃー。
最後の夜、どこかへ繰り出したい気持ちを抑え、ルームサービスでビールを飲む。とほほ。

 

 

2006.1.4

デカン高原を走り、今日はエローラ石窟寺院群へ。
ここには7世紀頃に作られた仏教僧院、9世紀頃に作られたヒンズー教窟、
そして10世紀頃に作られたジャイナ教の石窟があり、古代インド宗教の寛容性が見うけられる。
第16窟カイラーサナータ寺院はヒンズー教窟。
岩山の裾から、奥行き81m幅47m高さ33mにわたって切り開き、
楼門や寺院を彫り残した巨大な石彫り建築寺院。
壁面や柱などには何万もの浮き彫り彫刻。
ノミで彫った、というのだから、気が遠くなる。

ランチはカイラーサナータ寺院の丘を眺められるレストランの庭で。
こちらの定食はターリーとよばれ、ステンレスの盆皿に、数種類のカレーとヨーグルト、
精白していない小麦粉を焼いたチャパティーにごはんなどが盛りあわされる。
盆皿にすべてのものを混ぜ合わせ食べるのが正しい食べ方。
右手だけで食べてもみたが、お箸を使いこなせない外人のごとくで、私たちはスプーンを使っている。
食事の後は必ず甘いチャイ、すっかりインドスタイルが身についた。
こちらの飲み物はたいてい甘々で、コーヒーといえば砂糖入りミルクコーヒーがでてくる。
しかし、最後に訪れたムンバイ=ボンベイではチャイは田舎ものの飲み物、
お茶はイングリッシューティー、コーヒーはブラックででてきた。
ムンバイはインドであってインドでない巨大都市だ。

 

 

2006.1.3

アジャンタはデカン高原の北西、ワーグラー渓谷の断崖中腹に刻まれた石窟寺院群。
紀元前2世紀頃に仏教徒が修行のために石窟僧院と僧塔を彫ったことから始まり、
紀元前1世紀頃の前期窟と紀元5世紀頃の後期窟に分かれ開かれた。
しかしその後アジャンタは放棄され、19世紀に虎狩に渓谷に訪れたイギリス人に
偶然発見されるまで、千年もの間ジャングルのなかに忘れ去られていたのだ。

アジャンタの優美な壁画は、中国や日本の古代仏教絵画の源流であり、
お釈迦様の人生と前世の物語が描かれている。
名もなきローカルな画家がのびのびと筆をふるった壁画は、
いわば説法のための絵本で、 仏教初心者も興味がわくような絵だ。
しかし壁面すら見えない暗い洞窟、どのようにして精巧な絵が描かれたのか、
幾何学的に装飾が配置された天井の絵画は、、、、、。
信仰とは、恐れ入るばかりだ。

ここには多くのインド人学生が遠足に訪れている。
にこやかに女子学生が手をふってくれる。
ネパールの男子学生はヤンキーっぽい。
若いエネルギーをもてあまし拗ねているような、こんな学生、日本にもいるような、もういないような。

 
 

2006.1.2

インドの新幹線シャタブディ特急はニューデリーを午前6時に発ち、アグラ着は8時10分。
ホテルのお弁当を持っていた私たちだったが、機内食ならぬ車内食がでてびっくり。
インドコロッケと食パン、味もけっこういける。
さらに食後はチャイのサービスもあって、 インド新幹線はエラい。

まず、ヤムナー河岸にそびえる赤砂岩のアグラ城へ。
添乗員Dちゃんのボス、昨夕から合流したO氏は城の内部のところどころで
テレビ『世界・ふしぎ発見!』レポーターのごとくクイズをだすお茶目なおじさま。
いよいよタージ・マハルへ。
ムガル帝国皇帝シャー・ジャハーンが愛妃のために建てた巨大な白大理石の墓。
どこから見ても均整がとれた、圧倒される完成度の高さはまさに世界遺産。
国が傾くほどの費用をかけた(実際に傾いたという)、圧倒される愛の強さもまさに世界遺産でした。

ランチが終わると、短期組は帰国の途へ。
それぞれのバスに別れ乗り込むとき、みんな泣きそうになっている。
N先生やヨーガというつながりはあったが、
年齢も、仕事も、家庭環境も、住んでいる地域もちがう私たち。
始めて出会って、同じ部屋になって、団体行動をする。
うまくいかなくてあたりまえと思っていたのに、
構えることなく、自然にうちとけていた。
こんなにかんたんに人と仲良くなれるなんて、感動。
旅の始めに教えてもらったラッキー13は、私たちのことだった。

長期組は6人。添乗員Dちゃんは短期組と帰り、ボスO氏が私たちに付き添う。
O氏は大阪万博の翌年にインドへ渡ったという筋金入りのインド通。
アグラから西インドのブサワルへと向かう寝台列車のなか、O氏のインド話のさわりを聞く。
寝る前には、自転車のチェーン鍵で座席と荷物をつなぎ盗難を防ぐ。
なるほどここで自転車の鍵が必要だったのか。
2段式の寝台は一畳くらいのスペース、シーツは貸し出され清潔。
通路むかいのインド人カップルは夜遅くまでしゃべっているが、列車の適度な振動が眠りをさそう。

 

 

2006.1.1

インドのお正月は11月だそうで、元旦はいつもと同じ朝。
それでも日付が変わる12時には花火があがっていたらしい。
(私はぐっすり眠っていたけれど)
今朝リシケシを発つ。たくさん着込んでカイロもつけて寝た夜。
シャワーだけのお風呂は寒くて入れず、昼間バケツに湯をはり洗髪した。
ずっとここにいるのはたいへんだけど、もう帰るなんて短すぎる。
やさしい味がするベジタリアンごはんもおいしかったのになあ。
リシケシに心を残し、バスに乗り込む。

バスは信号待ちで止まっている。
なかなか来ない列車、信号機のそばには屋台の物売りが並んでいる。
現地ガイド人のカーンさんが降りてみんなのためにフルーツを買っているのを見ていたら
たまらなくなって、添乗員Dちゃんの制止をふりきりバスを降りた。
今回は団体旅行だからと自制していたが、
なんでもそばで見ないと、自分で買わないと気がすまない現場主義。
グアバやインド焼き芋を物色していたら、Dちゃんが飛んできて手をひっぱる。
いつのまにやら列車は通過し、信号機はあがり、バスは進んでいた。
『インドの道はあぶないんです!』と困りはてた顔で、Dちゃんは私の手をひき、
車をよけ道をわたり、バスへと戻す。
ごめん、ごめん。リシケシで清らかになったかと思ったけれど、やっぱり私は私なのよね。
デリーに戻るとタンドリーチキンにビール、お肉もお酒もいただきます!

 
 

2005.12.31

ガンジスのほとりで、佐保田先生の20回忌にあたるプージャが始まる。
佐保田先生の写真を胸にした先生は川岸に、私たちは川岸の階段にすわる。
バラモンのお祈り、お経のような歌が続き、先生は花や米、ごま、牛乳などをガンジスに流すよう促される。
佐保田先生や亡くなった人たちへ送る手紙もガンジスに流す。
参列の私たちも太陽にむかい、ささげるように手を高くのばし、 黄色いマリーゴールドの花をガンジスに投げ入れる。
突然、しゃくりあげて泣きたくなる。
悲しいのでなく、心のとびらを無防備にひらいた感じ。
実のところ、20回忌は私には関係ないことと思っていたので、思わぬ事に驚く。
あの時あの場所に流れていたものが、身構えていた私の何かをはずし、子どものような素の状態にしたのだろうか。
予期せぬ贈り物をもらったような気持ちだった。

午後リンダさんの「女性のカラダのためのヨーガクラス」を受ける。
彼女はアメリカ人、ニューヨークで夫となるジャーナリスト川畑篤彦氏と出会い、
ふたりは「どう生きていくべきか、どう食べるべきか」の解答をさがすべく、
ニューヨークからアフリカ、インドを旅し日本へ戻った。
その後シヴァナンダ・アシュラムでヨーガを本格的に学び、シヴァナンダ・アシュラムの認可のもと
1987年にディバイン・ライフ・ソサエティー大分支部を設立。
しかし川畑氏は5年前に胃がんで亡くなり、リンダさんは1年前からここに戻っていたそうだ。
先生以外は皆初めてリンダさんにお会いしたのだが、その親しみ深い人柄に接すると、
前から知っていたかのようになつかしく思える人だった。
実は彼女だけでなくこの旅でご一緒している人は、ほとんどが初めて会う人たち。
しかし私たちは最初から不思議なくらいお互いをすんなり受け入れている。
『インドは呼ばれた人が行くところ』出発前に言われた言葉を思い出した。

 

 

2005.12.30

ヨーガ・ニケタンは5時から瞑想、6時半からヨーガクラス、8時に朝食という、
ふだんでは考えられない時間割ですすむ。
ゲストハウスからヨーガ・ニケタンは道を渡って坂の上。
まだ暗く寒い中、懐中電灯を持って出かける。

瞑想は座禅と違うから寝ていても大丈夫。
ヨーガは英語での説明だが、先生やまわりの動きをみれば、ついていける。
朝食は床の上にステンレスの食器が2つ、オートミールとチャイを配る人がまわってくる。
笑えるくらい粗食だが、食べるとほっこりする味、雑穀好きの私にはうれしい。

ヨーガ・ニケタンから眺める朝のガンジスの川面はきらきら光り、遠くに山々が連なる。
清らかなこの景色はどこか日本に似て、インドにいるとは思えない。

芝生の庭で、今朝のヨーガのおさらいをしたり、おしゃべりしたり、
ゆるやかに時間をすごしていると、シヴァナンダ・アシュラムに交渉に行っていたN先生が帰ってきた。
先生の恩師、佐保田鶴治先生はヨーガを伝えることに尽力され、20年前に亡くなられている。
20回忌をここリシケシでするというのが先生の大きな目的だった。
難病を持ちながらヨーガで元気を得たN先生にとって、佐保田先生への感謝と尊敬の念は
いまだ何より強いものであることを、私たちは知っている。

『シヴァナンダ・アシュラムの総事務長にあたる方とのご縁で、明日プージャをしてもらうことになった。
ふつうではありえない、すばらしい結果になった』と喜びにあふれる先生に、よかったですねと声をかけるみんなの姿。
インドのまぶしい昼の庭、胸からながれでる人を思う気持ち、というものを見たような気がした。

 

 

2005.12.29

デリーから専用バスで約6時間、向かうはガンジスの上流、ヒマラヤのふもと、
ビートルズも訪れたというヨーガの聖地、リシケシ。
道は舗装されているが1車線、 バスも、トラックも、自家用車も、バイクも、
トラクターも、人力車も、馬も、牛も、み〜んな同じ道を走る。
速い車は前をいくものを追い越すのがルール。
しかし、なにぶんいろんなものが走っているから、横すれすれに追い越すことになり
ここを走る車はサイドミラーがつけられない。
警笛を頼りに追い越し追い越され、インドの道はけたたましい喧騒が続いていく。

たどり着いたリシケシは思いのほか静かで空気の澄んだところ。
ガンジス川を望むヨーガ・ニケタン・ゲストハウスのシンプルな部屋に今日から三泊する。
この町は聖地なので、肉や魚、お酒はご法度。

ここに来る途中、ヒンズー四大聖地ハリドワールでガンジス川に足をつけ、
これまでの罪はちゃらになったとか(?)、そしてここでさらに浄化する(?)のだ。

 
 

2005.12.28


今日からインド旅行。
随分久しぶりに行ったヨーガ教室で、今回の旅行を案内され
インドへの思い入れも興味もなかったのに、なぜか行こうと参加を決めた。
仕事のことを考えると、行くならニューヨークかロンドンか、
しかし表立った目的はないまま、行く必要がある旅のように感じた。
慌しい年末に旅立つとなれば、年納めの仕事も 忘年会も 年賀状も
昨夜のパーティの汚れたグラスや食器さえも 知らぬ存ぜぬ。
蚊取り線香にカイロ、南京錠に自転車の鍵、懐中電灯 etc…という???の荷物リスト。
とりあえずつめこんで、いざ関空へ。
「鶴の会」インド・ヨーガの旅 参加者は13名、インドで「13」はラッキーナンバーと聞く。
旅の団長N先生曰く『みなさんハート美人ばかりです!』の私たち、さてどんな旅になるのやら。

 
 

2005.11.11

少し前になるが、ようやく見た映画は「メゾン・ド・ヒミコ」「サヨナラCOLAR」。

「メゾン・ド・ヒミコ」は配役が絶妙。
癌で死にゆく伝説の銀座おかまバーのママに田中泯。
「たそがれ清兵衛」で脚光をあび、今回も気品と孤高感ある年配おかまを上手く演じた。
その若い愛人にオダギリジョー、熟年ゲイ達の中でひときわ「魅せる」役。
若いゲイはこうでなくては!と、ほれぼれするきれいな腰のライン、衣装がいい。
ゲイである父を嫌い、その存在さえも否定して生きてきた娘に柴咲コウ。
ゲイ役の2人に比べると少し不利な感はあるが、柴咲コウのよさがでている。
舞台はメゾン・ド・ヒミコ、ゲイのための老人ホーム。賑やかで、哀しくて、温かな場所。
理屈ぬきで可笑しく、せつなく、愛しいシーンはみんなで繰り出すダンスホールの場面。
「ジョゼと虎と魚たち」の監督×脚本コンビの作品は、泣かせる台詞を瞬間に放ち
無防備なまま受けた言葉は、いつまでもココロに残る。

「サヨナラCOLAR」は竹中直人主演監督作品。
永積タカシのソロユニット「ハナレグミ」の同名曲からうまれた作品だ。

♪そこから旅立つことはとても力がいるよ
波風たてること嫌う人ばかりで
でも君はそれでいいの
ラクがしたかっただけなの
ぼくをだましてもいいけど
自分はもうだまさないで
サヨナラから始まることがたくさんあるんだよ。
ほんとのことが見えてるなら
その思いを僕に見せて♪

竹中直人がインスピレーションを受けたように、この曲が広げるものがある。
今年の春、私は呆れるほど繰り返し聴いていた。
納得いかない事に振り回され自暴自棄になりそうだった時期。
曲が気持ちを落ち着かせ、しみじみとゲンキになった。
でも私の「ほんとのこと」は胸の奥にいるまま、広がるのを待っている。

 
 

2004.8.31

会社員の頃の習慣で日経新聞を購読しているのだが、実際のところ株式や経済欄はほとんど読まないから日経をとる
意味はない。しかし文化面などが意外とおもしろく、今月の『私の履歴書』は特に熱心に読んだ。
8月は山口淑子。
日本と中国を祖国と母国とする山口淑子の出生から今日までを語るには、1ケ月の連載期間は短かすぎる。
しかし長い戦争のなか、李香蘭として生きた人のことを知ることができた。
彼女のまわりにいた人達の苦闘もまた重い。
『戦争で日中両国が失ったものは多すぎる。本当の信頼を回復するのに、あとどれだけ時間がかかるのだろう。』
という言葉を私はほんとうに理解したのだろうか。
知らなかったこと、知ろうとしなかったこと、『過去の歴史』とするにはあまりになまなましい。

 
 

2004.8.22

ワイン会でご一緒しているTさんのお店が企画した『たらふく喰呑ツアー/夏だっ!港で宴遊会三昧』に参加する。
場所は赤穂坂越港、まずは船乗漁業体験だ。総勢約50名の参加者は12人づつ漁船に乗りこみいざ海へ、
漁師さんの指示にしたがい仕掛けられた網をひく。
釣れなければ宴会用の魚がないからねと、おどかされていたが、いきなり大漁でひと安心。
次の漁場のモンドリカゴには蛸がいっぱい入っている。
1時間くらいで港にもどると、どの船も大漁旗でみんなうれしそう。
早速とれた魚を、刺身、塩焼き、浜飯、わっぱ汁、塩梅煮などの料理にかかる。
ここでも漁師さんの指示で魚をさばき、生蛸を洗う。
蛸は塩をふりザルに入れもむと、細かい泡がでてきて洗濯してるみたい。なかなかできない体験で楽しい。
料理ができたら、乾杯〜っ!あちらこちら、ハイピッチで盛りあがっている。
今回参加された方は飲食店の方も多く、次はお店に行きますね!と話もまとまっている。
まさにビールやお酒のTVCM、たくさんの人ががんがん飲んで食べている。夏っ!らしい一日でした。

 

 

2004.8.16

朝早く帰った人もいて、団体行動も今日は半分の人数。
映画「解夏」にもでてきた長崎凧のお店に行き、坂本竜馬の銅像のある風頭公園で市内を
眺め、
石畳と階段の急な坂道をくだり、いかの活け造りの店でお昼。
いかといえば佐賀呼子が有名だが、ここのいかもとびきり新鮮でじわっ〜と甘い。
さざえやひらめもおいしくてすっかりごきげんさんになる。
寺町あたりを散策し、明日から仕事のみんなと別れ、ひとりさっきの道をもどる。
小さな構えながら気になっていた骨董屋さんに入ると、とてもいいお店で、見ているだけで楽しい。
長崎は中国や南蛮の文化、有田があるから、骨董屋さん充実の感がある。
高いものは買えないが、伊万里のお皿と塗りの角膳を購入、うれしい。
店主の方とおしゃべり、『ほんとうは今日、お休みにするつもりだった』ということで縁があったのかな。
大阪から精霊流しに来たことを伝えると 『びっくりしたでしょう 』と言われ、大きくうなづく。
あれでも昔と比べておとなしくなったと聞き、さらに驚く。恐るべし長崎、、、だ。

昨日の昼間、諏訪神社を訪ねていたとき、ちょうど正午で終戦記念日のサイレンがなった。
神社の石段を歩く人がみんな立ち止まり黙祷をしていた。
私は最初なんのことかわからなくて、後でやっと気がついたのだけど、そのとき、ああここは原爆を受けた街で
信仰心が厚くて、でも開放的で、ハデ好きで、人情があって、いい街だなあ、、、と思った。
夏は海外旅行にでることが多い私は、外国で驚いたり、気づいたり、楽しんだりしていつも満足げに帰ってくるけれど
こうして 知っているようで知らない日本の街のことを知るのは違う喜びがある。今年の夏の思い出。

 
 

2004.8.15

3時までは自由行動、それからみんなでKさんの自宅へ。まず宴会をして夕方から精霊流しが始まる。
宴卓には皿うどんをはじめ定番長崎ごはんが並ぶ。皿うどんはウスターソースをかけて食べるのが本場流、
関西で食べる ものと 違い飽きがこない味だ。

6時頃からいよいよ本番。精霊流しは畳2帖くらいあるみこしのような船を男性の担ぎ手が家から海までひいていく。
男の人は白い衣装に黒い江戸前掛け、豆しぼりの手拭。私たちも前掛けと豆しぼりをまき、その船について歩く。
○○家と書かれた船首、にぎやかに飾り付けのされた船はどの船も、西にある極楽浄土を目指す西方丸、大きい
ものは2〜3連つながり、50人くらいでひいている。

家から長い坂をくだり、思案橋、観光通りなどメインストリートを進む。
各自耳栓を支給されていたが、これがなければ鼓膜がおかしくなりそうな大音響、とんでもない数の爆竹と花火が
ずっと 鳴って いる。『手で持ってはいけません』という打ち上げ花火もなんのその。
爆竹は一箱一度に火をつけ、時には何箱も重ねるだけでなく、ダンボール一杯の爆竹に火をつけるから火柱が
あがり
硝煙と 爆音がすごい。
大阪からきた小学生N君は、ふだん考えられない火遊びし放題にはしゃぎ、目はらんらんと輝いている。
そういう私も彼に負けないくらい夢中になっている。
しかし、これはお祭り?と勘違いしているのは関西人だけで、驚くばかりのにぎやかで華やかな精霊流しは
『長崎っ子に とっては心の神髄』。こんなふうにみんなに送られて浄土に行く長崎の人がうらやましい気がした。

 
 

2004.8.14

長崎県人のKさんが今年お母さんの初盆で精霊流しをする。
さだまさしの「精霊流し」は物悲しい旋律で哀調をおびているが、実際は親戚や友人知人が集まってずいぶん
にぎやかに 送るものらしい。そこで大阪に住む私達も呼んでもらうことになった。
大阪からの一行は小学生1人を入れた総勢8名、顔合わせした人もいるがお互いのことをよく知らない団体旅行だ。
Kさんは精霊流しの喪主であるが、今日は旅行代理店添乗員のごとく、食事から観光の手配、運転まで大忙し、
みんなでお昼を食べ、長崎市内を一望する稲佐山展望台に上る。

長崎市は海と山と坂の街、市電が走る市内はサンフランシスコのよう、原爆のあった街とは知りながらも、明るく
開放的な印象がある。その後、五島灘を望む外海町までドライブ。
市内中心地から1時間も走れば、美しく雄大な海と山の景観があるのはとても贅沢だ。
ここはキリシタンの里、遠藤周作の「沈黙」の舞台でもあり、遠藤周作文学館がある。
思い返せば狐狸庵エッセーは読んだが、まともに遠藤文学というものにふれたことがない。
資料展示品のなかにキリシタンの踏絵があった。
もっと重々しいものかと思っていたが、私から見ればひと筆書きのような十字架とキリストの絵、これが踏めないのかと
驚いた。 キリシタンの信仰心は私の想像力をはるかにこえ、改めて遠藤周作を読んでみようかと思った。

長崎の墓地は海を望む見晴らしのよい丘に建ち、墓標の文字は金色、初盆のお墓にはたくさんの提灯が下がり、
花火を 上げる。外海町からの帰り道、家族連れでお墓参りに行く人をたくさん見た。
関西とは違う華やかなお盆の風景、さらに翌日の精霊流しはもっとすごかった。

 
 

2004.5.20

なんとなく見に行った映画「スパニッシュ・アパートメント」がよかった!正解!
バルセロナに留学した主人公がみつけたアパートは国籍の違う男女7人の共同生活。
フランス・イギリス・デンマーク・ドイツ、ベルギー・イタリア・スペインと国が変われば、性格も生活も違う。
ユーモアいっぱいに描かれる仲間との暮らし、遠距離恋愛の彼女との別れ、そして人生の選択。
捨てかけた子供の頃の夢に向き合おうという主人公の決意は、ハートの奥にあるほんとうに大切なことに向き合うこと。
登場人物の誰をも身近に感じられる親しい映画だった。
ベジタリアンでヒッピーというお母さんの役どころもいい。
そして、私にとって子供の頃の夢は何だったろうと考えた。

 
 

2004.5.19

今をときめく「カリスマ美肌師」佐伯チズのトークショーに行った。
会場の新阪急ホテル紫の間は観客530人の熱気、肌をよみがえらせる「手のひらスキンケア」の技を知りたい女心と
「(佐伯さん)ほんまに肌がきれいか見てみたいわ〜」の好奇心があふれている。
話をしながら、どんどん観客席のなかに入っていかれるから、佐伯さんの美肌には全員納得。
来月61才になられるというのに、その肌はぴかぴか、オーラがでているかのように明るく光っている。
さらに明快で的確な話ぶり。
すっかり影響をうけ、色素沈着になると聞いたクレンジングオイルは、
まだ1/3量は残っているがいさぎよくゴミ箱に捨て、
口もとの皺はアンバランスな咀嚼が原因と、
食べる時は右で噛んで左で噛んで 右で噛んで左で噛んでと、佐伯流を実行する私。
しかしこの日友人と食事に行き、例のごとく飲みすぎ顔も洗わず寝てしまった、というのはどうなん?

 
 

2004.5.18

梅雨のような毎日、やっと晴れてきたので奈良学園前へSarah・花村フラワーアレンジメント作品展を見に行く。
先生のSarah・花村さんとは縁あって7年くらい前に旅行先のNYでお会いした。
今再び縁あって先生のスタッフの方がスクールに来てくださっている。
ここの作品展は『すごい!』につきる。
今回は「ピンクの花に寄せて」というテーマなので特に華やかだが、とにかく 並外れた作品の量と表現力に圧倒される。
それは日本人の感覚をこえ、始めてお会いしのがNYだったという理由に思える。
先生を始めとしたスタッフの方々はどうしてここまでできるのだろう。
人が美しいと感じるもの、こころ優しくなれるものを作り上げるという清澄な使命感だろうか。
それは凛々しく新鮮で、純度の高いパワーだ。

 
 

2004.5.15

アサヒビール大山崎山荘美術館は私の好きな場所のひとつ。
天王山の南麓にある山荘美術館は、「民芸運動」家の陶器やモネの絵画などの展示作品はもとより、
四季折々の自然が堪能できる。
この時期、山と庭園は豊かな緑色であふれ、ここにたたずむだけで命のリズムが息づく。
5/11から6/20までは通崎睦美選展「通崎好み」を開催。
マリンバ奏者、エッセイストの通崎さんのコレクション、アンティークの着物と小物が公開されている。
たとえば、ロシアアバンギャルド柄の銘仙は赤と黒の斬新なデザイン、着物好きでなくとも充分楽しめ、
着物好きには たまらない楽しさだ。
単なる贅沢ではない「奥行きのある贅沢」というものがわかる。

 
 

2004.4.18

さわやかな日曜のお昼、ベランダに七輪をだした。
パプリカ、竹の子、エリンギ、にんじん、ブロッコリーに、茹でたじゃがいもはホイルに包み、神戸住吉山口とうふ店の
お揚げさんというベジタリアンな炭火焼。
そのながれのままワインを飲み、午後は読書。
田辺聖子「残花亭日暦」は、
『最愛の夫の入院と死。96才の気丈な母との同居。原稿執筆。講演旅行。賞の選考。 対談。
そして、多忙な一日一日の食卓の風景。昭和が生んだ最後の文人田辺聖子が人生の激動期のリアルを、
ユーモラスで美しい田辺ことばで書き付けた日記文学の宝もの。』(帯より)
ワインのせいにして、笑いながら泣く。「田辺聖子」がぎゅっとつまった本。

 
 

2004.4.17

今月見た映画。『恋愛適齢期』ダイアン・キートンの魅力健在がうれしい。
『イン・ザ・カット』映画としての完成度はともかく、女性が持つpassionの表現がさすがにうまい。
見ると力強く正直に なれる。
『ディボース・ショー』並はずれたゴージャスって気持ちいいす。
そして映画好きのMさんにすすめられた『悪い男』。
ストレートな純愛ものが人気の韓国作品のなかでは異色、究極の純愛映画。
暴力的で破滅的で、いにしえのフランス映画のよう。
監督は男のロマンを描き、その意味では「韓国の北野武」という 評価もうなずける。
しかし、男のロマンとはなんともやっかい、凶暴と純真と痛々しさの混在。

 
 

2004.4.14

スポーツクラブのロッカールームで聞くともなしに聞いた会話…。
『やぁ〜、あんたウエスト細いなあ〜』
『そんなことないで〜、このごろ胸もお尻もさがってきて〜』
『私なんかこのへんに(注:腰まわりでした)肉ついてあかんわ〜』
『ところで○○さんて、いくつなん?』
『あの人昭和2年生まれとか言うてはったから、私よりひとつ上やね』
どうやら妙齢70才台らしいご婦人たち3名…。
いくつであってもオンナの話題は同じ!すごい!

 
 

2004.4.13

「娘」というものは実家から帰る時、なにかしら食料品をもらっていくもので、今日の私は『お米ちょうだい』と
米びつからジプロック袋につめている。
床にパラパラ何粒かこぼしたお米は、残さずチマチマ拾う。
ふだんアバウトな私だが、米粒はぞんざいにできない。
『お米には88人の神様がいるから、たとえ一粒でも粗末にしたらあかん!』と言ったのはY君、小学校の時の話だ。
おばあちゃんが言うようなことを、大真面目な顔で言ったのがおかしかった。
Y君は人気のある男の子で、友達のSちゃんは本気で彼を好きだった。
あれから何年たつのだろう、信じられないくらい年月がたった今でもお米をこぼすと、あの言葉を思い出し、ちゃんと
拾おうとする。なんだか愉快で、そして少し不思議な気がする。

 
 

2004.3.10

ほどよく太っている(であろう)私は『健康そうですね』と言われがちだが、
貧血の数値は治療を要するところまで
きている。
 「薬でなく食事で直したい」という私にお医者さんは(やれやれ、、、)という顔をする。
貧血を食事で改善するのは、言うほどたやすいことではないだろう。
しかしたぶんこれは私に与えられた課題だ。
 「食」を仕事とする私にとって、ちゃんと元気で、ちゃんと気持ちいい 身体でいることは、必要不可欠なことに思う。
「貧血の数値改善」にまじめに取り組まないといけない。
ダイエットは逃げたり、ごまかしたりできるけれど(この件については黙秘、聞かんといてください)、
今度は そういうわけにはいかないだろう。
「食」にかかわっている私が何をすべきなのか?ひとつの方向性を示すために発信された身体からのメッセージか。
ちゃんと直して、そしてその方法が誰かの役にたてばいいなあ、と思う。

 
 

2004.3.9

岸本葉子の『がんから始まる』(晶文社刊)は、雑誌や新聞でよくとりあげられているので、ご存知の方も多いだろう。
『40歳、ひとり暮らしのがん患者。仕事は?生活は?再発の不安とたたかいながら、毎日を自分らしく生きる。
人気エッセイストが綴るがん闘病記』である。
この本にまつわる取材で岸本葉子が感じたギャップを書いた一文を読んだ。
一般的な社会通念は「がん=確実な、近い死。 限られた命」のままで、
そこには治癒率の向上などの現実的な 変化は存在せず、
取材においても、ドラマのような「告知のショック」を期待した質問と、
「限られた時間をどう生きるか」というテーマでとらえられがちだったこと(限られてないのにだ)、
がんにまつわる固定観念の壁の高さを 軽快にまとめていた。
実は『がんから始まる』の一貫したテーマは、
治癒率50%という「不確実」性のなか、日常生活をいかに構築するか、 である。
このテーマは、たとえがんであろうとなかろうと、誰にとっても大切なことに思える。
特に、彼女くらいの年齢で仕事をもつひとり暮らしの女性にとって、
自分の生活を続けるうえで持つべき「勇気」のようなものを、再確認させてくれる本だと思う。

 
 

2004.3.4

幼なじみのYちゃんが夢にでてきた。
長い間会っていない彼女が夢に登場したワケは、朝の連ドラ「てるてる家族」だ。
「ブルーライトヨコハマ」が流行っていた頃、北摂地域のはずれに住む小学生の私に、
『いしだあゆみは池田の パン屋の子やで』と誰かが得意げに教えてくれた。
Yちゃんはいしだあゆみに似ていると女の子の間で言われていたが、
私達のいしだあゆみ評は、『きれいやけど 歌ヘタやし、アホそうや』というもので、
Yちゃんに『似てるなあ』と言うのはおちょくっているのだった。
ドラマの中でながれる「ブルーライトヨコハマ」が遠い記憶、あの頃の私達、教室のがやがやした雰囲気、
なんでも ない会話をよみがえらせる。
歌の持つフシギなチカラ、そして「てるてる家族」というドラマが持つ、人の気持ちを開かせるチカラだ。

 
 

2004.3.3

先日箕面カルフール駐車場の壁に車の前をぶつけ(あ〜っと思っていたら)、その後交叉点で車と接触。
ほとんど衝撃もなく幸いケガもなかったものの、互いの車の鼻先がへこみ、
相手が社用車だったので保険で修理 することになった。
そこで私は始めて自分の車の車両保険に加入していないことを知る。
以前は入っていたのになんで?
昨年夏の契約更新時郵送されてきたプランのうち、いちばん安いプランで更新した?
ぐわ〜っ、インターネット更新の落とし穴!
人を介した更新ならば、 『(あなたの運転技術で)車両保険をはずすというのはいかがなものでしょう。』 の一言が
あったかもしれないが、PC画面は黙して語らない。
しかしこっちは深く考えてなんかいないのだ。
その時私はきっと貧乏で(今も貧乏だが)安い方でいいやん!なんて
簡単に決めたにちがいない。
けちった保険料の数倍の修理代を自分で払う段になって、
私のようなタイプはネットでの更新にはむかないことに 気づく。
インターネットでの保険更新には冷静な判断が必要だったのね(あ〜っ、あとの祭り)。

 
 

2004.2.18

今ごろなんやねん?ですが、恒例まんねんちゃんの年賀状「猿バージョン」を公開します。
今年の干支が猿だと覚えていました?今回はちょっと大人な感じ。
さぁお気に入りを見つけてください。


(画像をクリックすれば大きいサイズでご覧頂けます。)

 
 

2004.2.15

酒匠の会で元祖にごり酒「月の桂」(株)増田徳兵衛商店に行く。
昔ながらのたたずまいを残す蔵は京都伏見の鳥羽街道沿いにある。
にごり酒はもろみが醗酵し熟成した頃に桶の中から汲みだされる発泡性活性酒、いわば米のシャンパン。
飲みすぎるとたいへんなことになるのもシャンパンと同じ、なので今まで避けていたところもあった。
しかし今日お話を聞き、本物でないにごり酒以外はもたないことを知り、認識が変わった。
またにごり酒のみならず、無農薬有機栽培の伏見産酒造好適米で造った純米酒や
大吟醸を特別な甕でねかせた古酒など、古い歴史だけではない確かな実力を感じた。
『円熟した芳醇さ』京都伏見酒の意気がある。

 
 

2004.2.14

まじめにダイエットしようと思っている。
ひきだしを片付けていたら「ダイエット日記」なるものがでてきて、それはほとんど3日坊主でおわっているけど、
驚いたのがこれからやせるぞ、というスタート時の体重が今より4kgほど軽いということ。
つまり今とんでもなく太っているという事実。
それは昔の写真と見比べてもあきらか、この下半身なに?という現実。
ということで真面目に取り組むことにする。
今さらのダイエットにはもう王道しかないわけで、、、

◆ 食べ物日記をつける
◆ 週1、2回のスポーツクラブがよい(毎日なにかしら運動)
◆ 夜は炭水化物量を減らす(私は米粒と麺類好き)
◆ 酒量を減らす(酔うと穀物系ドカ食い癖あり)

で、3ヶ月6kg減を目標にがんばります。
私の場合『きちんと食べてダイエット』は仕事のうちだし、こうして日記にも書いて公言して、逃げないようにしましょう。
(う〜ん、大丈夫かなあ。)

 
 

2004.2.12

最近読んだ本、よしもとばなな『王国U』。
ワケあって沈みがちだった気持ちがストンと納得した。
最近見た映画、『ジョゼと虎と魚たち』。
私的に田辺聖子のベスト5に入ると思う短編が原作なので、どうかなぁ、と思っていたがよくできていた。
大阪弁の持つ微妙なニュアンスがきっちり表現され、人物のかわいらしさが描かれた。
そして食べ物がおいしそうな映画。
ジョゼの作る正しい朝ごはん、食べる妻夫木のうれしい顔が心に残った。 妻夫木健闘してます。
そしてもう一本、『味』。
砂糖とラード、化学調味料を一切使わない中国のスローフード「魯菜」、
中国では文化大革命で絶たれた魯菜を 正式に作れるのは日本人の佐藤夫妻だけというドキュメンタリー。
魯菜も興味深いが、36年間ともに歩んだ夫婦愛にしみじみする映画だ。

 
 

2004.2.11

私の部屋のむかい側でビルが建設中。
天井の高い11階建て、さらに屋上に2階分くらいのビルボード、建設基準めいっぱい!という高さだ。
これまでぺたんと床に座って窓から見えるのは空だけだったのに、今は無粋な鉄骨が見える。
街中に住んでいるからしょうがない、と言えばそうなのだが、なんだかいやだなあ、と思う自分がいる。
交通量の多い道路から少し入った場所なので、
その高さには違和感があり、なりふりかまわない自己中心的な 露骨さを感じる。
この部屋でいちばん好きだったものが変わってしまう。
探しているけれどなかなか進まない引越しのきっかけになるのだろうか。